雪ヶ谷の里の総鎮守。小高い丘の麓に鎮座されています。最寄り駅は東急池上線石川台駅。改札を出て右手の商店街を1~2分,ひとつめの十字路を過ぎると緑あふれる鎮守の杜が見えてきます。商店街に隣接しているため,散歩や買い物の途中など多くの参拝者が訪れています。地元の人たちに愛されていることがわかります。
- 所在地 大田区東雪谷二丁目25番1号
- 御祭神 誉田別命(第十五代 応神天皇)
- 旧社格 村社
- 別當寺 円長寺,長慶寺
- 例祭日 9月中旬の土日(9月15日に近い土日)
- 御由緒 永禄年間(1558~69),北条氏康の臣 太田新六郎により創建
雪ヶ谷八幡神社の御由緒
當社の創建は永禄年中(西暦1557~1569)と誌され,北条左京太夫氏康の臣大田新六郎管内巡視の際,當所において法華経曼荼羅の古碑を発掘し,その奇瑞により八幡大菩薩を創祀す伝う。
東京都神社庁 「雪ヶ谷八幡神社」
爾来,旧中原街道沿道随一の由緒深き神社として人々の崇敬のもとに,雪ヶ谷の里の鎮護の神として茲に四百五十年のご神徳をもって現在の盛儀をみるに至る。
雪ヶ谷八幡神社の創建
雪ヶ谷八幡神社の創建は永禄年中(1558~1569年)とされます。後北条氏第3代目當主・北条氏康の家臣であった太田新六郎が管内巡視の際,當地に於いて法華経曼荼羅の古碑を発掘。「これは,何かめでたいことの前兆として起こる不思議な現象に違いない」として,八幡大菩薩を創祀したことがはじまりと伝わります。神道に法華経は関係ないのではと疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが,神仏混淆時代では法華経の曼荼羅を御神体として社に祀ることは珍しいことではありませんでした。日蓮聖人が残した曼荼羅(日蓮宗系のご本尊様)にも天照大神と八幡大菩薩が勧請されています。日蓮宗の檀徒は日本古来の神々への信仰が篤く,その思想は法華神道(*1)といわれています。
太田新六郎
太田康資。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。太田資高の次男として,享禄4年(1531年)に生まれました。母は北条氏綱の娘・浄心院。清和源氏の一流で,江戸城を築いた太田道灌の直系の曾孫にあたります。新六郎は字(通称)。怪力の持ち主で八尺の鉄棒を振り回したと伝わります。
父・資高が死去すると家督を継ぎ江戸城代(城主の代理)となります。はじめは,小田原の後北条氏の配下に属していましたが,永禄5年(1562年)同族の太田資正と安房の戦国大名・里見義堯の招きで上杉謙信と手を結びます。永禄7年(1564年)1月,里見氏と後北条氏が激突。第二次国府台合戦では,里見方の武将として奮戦します。その後も北条氏と戦い続ますが,天正9年(1581年)10月12日,小田喜城にて51歳で亡くなりました。
なお,日蓮宗の寺院,大本山小湊誕生寺(*2)のWebページによれば,太田氏は代々日蓮宗を信仰し,曽祖父道灌は江戸城の鬼門鎮護のため本所報恩寺を開き,城中には鎮守として三十番神堂を建てたと記されています。
雪ヶ谷八幡神社と日蓮宗の関わり
戦国の世を得て,天正から元和の頃(1573〜1616年)になると,村内に長慶寺(現・東雪谷5丁目)と,円長寺(現・南雪谷5丁目)が創建されます。ともに日蓮宗(法華宗)の寺院で,別當として隔年で八幡宮に仕えることになりました。祭礼は仏式(仏祭)で行われ,両寺の住職立ち合いの上読経されたと伝わります。また,その當時は,末社として日蓮宗と関連の深い七面大明神(*3)を祀っていたと『新編武蔵風土記稿』(1817年)に記録があります。
境内にある庚申供養塔群(*4)の標識板によれば,雪ヶ谷村の村民のほとんどが日蓮宗の檀徒であると記されています。まちの役員のはなしでは,現在でも古くから當地に住んでいる方々の多くが,長慶寺,円長寺のいずれかを菩提寺とされていると聞きます。雪ヶ谷地区及びその周辺には日蓮聖人の伝承が数多く残っており,當村の村民は日蓮聖人への信仰が深かったことがわかります。
雪ヶ谷八幡神社の本殿拝殿
現在の雪ヶ谷八幡神社の拝殿は南に向いて建ち,石製の鳥居が3基(西参道を含む),木製の鳥居が1基あります。『池上町史』によれば,応神天皇を祭神として祀り,天正元年(1573年)に勧請鎮座したとあります。江戸期の雪ヶ谷村は水害や火災が多く,雪ヶ谷八幡神社も幾度か罹災されたことが記録に残っています。元文(1736〜1741年)のころには火災にかかり,嘉永元年(1848年)8月には大風の影響により社殿が大破して,境内の樹木も数千本が倒れました。それらの木材を売却した資金と,村内からの奉納により,文久2年(1862年)1月に社の社殿再建がはじまります。翌,文久3年(1863年)2月に落成しますが,遷宮式を挙げることなく明治維新を向かえます。改めて明治3年(1870年)11月10日,式を挙げ拝殿となりました。ついで,本殿は明治5年(1872年)に起工,明治29年(1896年)11月25日に落成,本殿遷宮式を盛大に挙行したと伝わります。しかし,昭和20年(1945年)5月の空襲で社殿が焼失。戦後,氏子崇敬者の赤心により昭和34年(1959年)8月に現在の本殿拝殿御造営,正遷座されます。
明治から昭和初期の雪ヶ谷八幡神社
明治2年(1869年)1月,神仏判然令により,中延村名主・鏑木利兵衛の舎弟で中延村の神主を勤めていた鏑木外記義胤が當社の神職を兼務。明治6年(1873年)7月5日に村社に列せられ,祭礼日を毎年9月15日としました。明治43年(1910年),石川村の白山神社と天祖神社を當社に合祀します(後に石川神社として復祀)。末社に天満宮,清正社,瘡守社,稲荷社など,境内の小祠に祀られていました。昭和6年(1931年),境内にあった2軒の住居者の後援のもと在郷軍人同志会に於て忠魂碑が建設されました。
- (*1)法華神道 日本の著名な神々が毎日番代りで『法華経』を守護するという信仰。とくに天照大神,八幡大菩薩の2神への信仰が篤かったが,明治新政府により出された神仏判然令により法華神道の思想は衰退した。
- (*2)大本山小湊誕生寺 當山に太田新六郎の墓が営まれています。石塔の正面に「大田新六郎康資墓」,左右両側面には,新六郎夫妻の法名・命日が「法林院武庵日高居士,天正九辛巳年十月十有二日」「法性院宗覚日悟大姉,天正十六戊子年六月十有四日」と刻まれています。
- (*3)七面大明神 日蓮宗において法華経を守護するとされる女神。現在の雪ヶ谷八幡神社に於て,摂末社として七面様を見ることはできない。昭和7年(1932年)に発行されてた『池上町史』にも七面様の記述はない。推測であるが,明治政府の神仏判然令によって,仏教色の強い七面様は他の摂末社と合祀されたと考える。
- (*4)庚申供養塔群 大田区指定文化財。「庚申塔」とは中国道教の庚申信仰に基づいて建てられた石塔。日本では仏教や神道と結びつき青面金剛像や帝釈天,猿田彦神と同一視されている。雪ヶ谷村に於ても,近世を通して多くの庚申供養塔が村内各所に建てられた。しかし,近代に入ると同地区の宅地化や道路拡張工事,庚申講会員の高齢化や減少にともない,道しるべを兼ねたものや日蓮宗系のものなど7基の庚申供養塔が雪ヶ谷八幡神社に納められている。