子安八幡神社

池上村の鎮守様。仲池上の西北部にある丘陵地に鎮座され,根方八幡とも呼ばれています。雪ヶ谷(雪谷特別出張所)からのアクセスは荏原病院バス通りを南下。新幹線を潜り,道々橋交番前交差点の左手(東側)に見える”こんもりとした杜”が目印です。子安八幡神社下の裾野道(池上本門寺へと続く古道)は,現在「ねがた桜みち」と呼ばれ,上池上地区の人々の憩いの場として親しまれています。

  • 所在地 大田区仲池上一丁目14番22号
  • 御祭神 品陀和気命(第十五代 応神天皇)
  • 旧社格 村社
  • 別當寺 林昌寺
  • 例祭日 9月第1土・日曜日
  • 御由緒 康元元年(1256),當地の領主 池上宗仲により創建

子安八幡神社の御由緒

當社は,89代後深草天皇の御代康元元年(1256年)領主池上右衛門太夫宗仲公が武州池上山(現本門寺内)に鶴岡八幡宮を勧請し尊崇したるにはじまる。その後,天正9年(1581年)遷座の議が進められ現在の地に鎮座されたと伝えられます。

東京都神社庁 「子安八幡神社(八幡神社・子安八幡・根方八幡)」

子安八幡神社の創建

子安八幡神社の創建は康元元年(1256年)。武蔵国千束郷池上の領主であった池上宗仲が,一帯の総鎮守として領内の林中を開き鶴ヶ岡八幡宮を勧請したのが始まりとされます。鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を迎えた遷座鎮祭の禮に際して,幣帛を奉ると篝火が御神楽の舞姫の袖に燃え移る怪事が起きました。燃え移った火が舞姫の全身を包み込むと「妾(わらわ)は當地の悪疫病の化身にして,この大禮によって消滅する」と言い残し,息絶えたとする伝承が残っています。

その後,弘安5年(1282年),當社に奉祀する御神像は日蓮聖人による御開眼の霊神により,以来池上郷の鎮守として祀られています。天正9年(1581年),池上家の祀職司であった綱島右近祐清が領主の命を蒙り遷座の神事を司ります。現在の地に鎮座されたあと,度々火災の難を受けましたが,御霊神に一点の異状を受けず現在に至ります。

創建者・池上宗仲について

子安八幡神社の創建者は池上宗仲とされています。 池上宗仲は弟の池上宗長ともに池上兄弟と呼ばれた日蓮聖人の代表的な門下のひとりです。 池上家の由来については定かではありませんが,天慶3年(940年)の「平将門の乱」鎮圧のため武蔵国へ下向した藤原忠方の末裔と考えられています。 戦功を立てた忠方は,千束八幡を氏神として武蔵国千束池の畔に居をかまえ,池上姓を名乗ったといわれています。 池上兄弟の父・池上左衛門大夫(池上康光)は,鎌倉幕府の作事奉行(殿舎の造営や修理などを司る職)として武蔵国千束郷を治めていました。 父・康光の亡きあとは,宗仲が家督を継ぐことになります。

日蓮聖人との関わり

『池上町史』によれば,康元元年(1256年)6月14日池上宗仲邸内の社に鶴ヶ岡八幡宮を勧請する。 その後,本門寺の本堂影堂の裏に小殿を作り幣帛を奉納,弘安5年(1282年)9月29日に開眼(*1)して本門寺の鎮守として崇敬したと記されています。弘安5年は日蓮聖人が病気療養のため常陸国へと湯治に行かれた年です。 同年9月8日に身延山を下山。同年9月18日に千束郷の池上宗仲の屋敷(現在の本行寺)に到着。 しかし,病状が悪化し旅を続けることは無理と察した日蓮聖人はここを最後の居地と定め,池上宗仲邸の裏山に建立された一宇を開堂供養し長栄山本門寺(*2)と命名します。 同年10月13日,池上宗仲邸において日蓮聖人は61歳で入寂されました。

神仏混淆の時代では,大部分の神社に神宮寺がおかれ,仏事を修する僧侶が配属されていました。したがって,仏教の僧侶が神社の御神体を開眼法要することは普通に行われていました。日蓮聖人も京都・比叡山・南都で学問を修め帰郷の途中,伊勢神宮に赴き「われ日本の柱とならん。われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん」と立教開宗の三大誓願を天照大神に奏上,眼前に姿を現した妙見菩薩に法華経守護の誓願を立てたと伝わります。しかし,「日蓮聖人自身は神社参拝を禁止していない」とする一方で,「日蓮聖人は門下に対して『他宗の寺院や神社の参拝は謗法である』として参拝を禁止していた。したがって,伊勢神宮に赴いたのは史実でない」とする解釈もあり,日蓮聖人の伝承が残る神社については日蓮宗各派,信徒団体で見解が別れています。後者のように日蓮聖人が神社参拝を禁止していたとすると,子安八幡神社に残る日蓮聖人及び池上宗仲の伝承は,近世以降に物語として作られた可能性があります。

遷宮後の子安八幡神社

本門寺から現在の地(現・仲池上1丁目)に遷座したのは,天正9年(1581年)12月19日。同じく『池上町史』によれば,根方村(*3)の綱嶋有近祐清の願により同人の土地,即ち現在の地に遷宮されたとあります。遷宮された當時は大比留姫尊を祀り,子安八幡と号し安産の守札を授けていました。その後,明治6年(1873年)7月5日に改めて誉田別命をお祀りします。前社殿は天保14年(1843年)に建立されるも,大正14年(1925年)7月30日に焼失。その後,昭和2年(1927年)9月に鉄筋コンクートの社殿(*4)が建造されました。

例祭日は毎年9月15日(現在は9月の第1土・日曜日)。當初,綱嶋有近が神主を務めましたが,神仏混淆期には隣接する林昌寺の住職が別當として司ります。明治維新後の神仏分離により,明治6年(1873年)7月5日に村社に列せられ,中延村の神主・鏑木外記義胤を祠掌(社掌)として迎えました。明治38年(1905年)11月8日には山口直麿が社掌に任じられ,明治40年(1907年)5月4日には神饌幣帛料供進指定神社となります。

境内末社に稲荷神社,疱瘡神社の2社。大正14年7月30日,本社殿が焼失した際に末社殿も類焼。『池上町史』には「目下本社殿に仮遷宮中なりと。」とありますが,現在も境内には末社の祠を見ることができないため本社殿に合祀したものと考えれます。

  • (*1)開眼 『池上町史』には日蓮聖人が子安八幡神社の御神体を開眼したという明確な記述は確認できない。しかし,時期的にも重なることから日蓮聖人によって開眼されと考えられる。
  • (*2)長栄山本門寺 日蓮聖人御入滅の後に,池上宗仲が法華経の文字数にちなみ約7万坪の寺域を寄進され,以来「池上本門寺」と呼ばれている。
  • (*3)根方村 新編武蔵風土記稿では「根方村」という独立した村は確認できない。
  • (*4)社殿 戦前に撮影された社殿の写真と現在の社殿を見比べたところほぼ一致する。こちらも手元の資料では確認できないが,現在の社殿は戦災から免れたと考えらる。
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